
わたしは何を見ているのだろう
自分が今見ている光景は目の前にある現実である。
これは紛れも無い事実である。
ここで、わたしの視機能に問題があると分かったところで一つの疑問が湧いてきた。
「そんなわたしになぜ写真が撮れたのだろう?」
見ようとしているものの手前で焦点が合ってしまい
その現実にピントが合わない状態のわたしの眼で
激しく早く動くラグビーやモトクロスなどの写真や
瞬間的に変わる人の表情や仕草
色や立体感の豊かな風景
複雑に変化していく日常
わたしにこれら全ての写真が撮れたのは何故だろう…
答えは簡単
「カメラが撮っている」
からである。
つまり、高性能のカメラがあるから撮れているとう事である。
これまで撮り続けてきたたくさんの写真も
カメラがあれば「誰でも撮れる」と言う事になる。
人それぞれ意見はあると思うがそれはさておきw
これはわたしにとっては信じがたいところではあるが事実であり
それと同時に写真家として活動をしているわたしにとっては認めたくない現実でもある。
決して認めたくはないが・・・
絶対に納得したくはないが・・・
こんな現実を目の当たりにすると
どんな理屈や哲学さえも後付けの理論に思えてくる。
進化し続ける現在のカメラにおいては使い方さえ覚えてしまえば撮れないものは無い。
悔しいけど「誰でも撮れる」と言うのは事実である。
軽い気持ちで検査に行き
思いもよらない結果を目の当たりにして
最後はこんな結末になろうとは…
50年以上も生きて来て今更こんな現実ってどうなんだろう(笑)
ところが
こんな現実を突きつけられたにも関わらずすんなり認められたのは
検査をしてくれた中西さんが最後に笑顔で言った一言があったからだった。
「大関さん、これから撮る写真が変わると思いますよ」
中西さんは眼鏡を作る事でその人の視力を補いよく見える様になるだけでは無く
その先に何を見る事になり
その先どう変化して行くのかを見ていた。
それを見ながらその人の眼鏡を作っている。
それがドイツマイスター眼鏡院である。
人は日常的に「見ている」という行為を無意識のうちに行っている。
目を開けた瞬間からその光景が見え、それが何であるのか瞬時に分かる。
この「見ている」と言うのは目の前にある光景を眼が見ているのでは無く
ドイツマイスター眼鏡院のウェブサイトにも大きく書かれている
「ヒトは脳で視ている」
という言葉でも分かる様に
眼から送られた情報をもとに脳で整理され「見ている」のである。

視機能に問題があったわたしに写真が撮れたのも
眼の機能で見ているのでは無く
脳で見ていたから撮れたのであり
脳でイメージできているから撮れるのである。
目の前の現実を見ていても
しっかりと頭の中にあるイメージを見ている。
わたしはそれらを見ながら写真を撮っているのである。
今までずっとそうして撮って来て
これからもずっとそうして撮って行く
では、なぜ「撮る写真が変わる」のか。
カメラがあってこそ撮れるのだというこの現実を受け止めることができたから。
そして自分は何を見ているのかを知ることができたから。
人それぞれ能力は異なり
努力することでその能力はより増してくるものだ。
もっとたくさんのいろんなものを見なさいと教えてくれた先代の言葉がここにきて更に身に染みてくる。
これからどんなものが見えてくるのか
また楽しみが増えたな
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